#2 RACE
海月女子学園の昼下がり。
午後一発目の授業で、とあは板書をノートに写していた。
いくら自分たちがボートレース部で、水面に青春を浮かべる身の上とは言っても、競技一辺倒というわけにはいかない。
学生の本分は勉強である以上、基礎学力は積まなければならないのだ。
そう思って大森とあはきちんと勉学に勤しんでいるが、全員が全員、そういう意識の高い部員ではなく、
「すぴー……ぽひゅー」
授業中にもかかわらず、隣の席でとても気持ちよさそうに寝息を立てている不届き者を一人発見。
「こら、ふたば」
とあは教師に聞こえないような小声で、隣の少女を注意した。
京浜ふたば。
同じボートレース部員で、鎬を削り合う好敵手といった少女である。
こむぎが妹であるならば、ふたばは親友と呼べるだろう。
もっとも、面と向かってそう宣言した事はないが。
……だって、照れくさいし。
「むにゃむにゃ……もう食べられないぞぉ……」
ふたばの口がもにゅもにゅ動いて、そんな言葉が漏れてくる。
すごい。
漫画で見るようなテンプレートの寝言を現実で耳にできるとは思わなかった。
とあは妙な感動を覚えていた。
——って、違う。
そうじゃない。
「ふたば、起きろ。怒られるぞ」
とあはこっそりと手を伸ばし、ふたばの二の腕辺りをつんつんと刺激する。
が、ふたばは相変わらず夢の国から出国してこない。
「ふーたー……あ」
本腰を入れてふたばを起こそうとしたとあは、そこで顔を上げた。
いつの間にか、教師がふたばのすぐ傍らに立っていたからだ。
一見してとてもにこやかに笑っていたが、その目は笑っていない。
教師が腕を上に持ち上げていく。
その手に握られているのは、結構厚めの教科書で——
さようなら、我が最大のライバル、京浜ふたば。
とあが心の中で十字を切った瞬間。
スパーン!
何とも小気味のいい音が教室に響き渡った。
一日の授業が終わり、やってきた放課後。
あとは楽しい楽しい部活動の時間だ。
こむぎはまず着替えをするために、部室代わりの更衣室がある倉庫、海沿いのガレージに向かっていた。
そこで待っていたのは、大森とあにお説教をされる先輩、京浜ふたばの姿で、
「まったく……お前が素行不良で先生たちに目をつけられたら部全体に影響するんだからな」
「だって、お腹いっぱいになったら眠くなっちゃってさ」
「反省しろ!」
「にゃははは、ごめんごめん」
あまり反省していなさそうに笑うふたば。
「だいたい眠気なんて、吹っ飛ばせばいいだろう」
「お、どうやってさ?」
「そんなもの、お前……太股にシャープペンを滅多刺しするとか」
「とあちゃん、すごい人体に厳しい事言ってるね……」
衝撃的な対処法を耳にして、思わず二人の会話に割って入ってしまったこむぎだった。
それでようやくこむぎの存在に気付いたようだで、とあもふたばも顔を向ける。
「おー、こむぎ。おつかれおつかれ」
「おつかれさまです、ふたば先輩! 今日もバッチリ小麦肌ですね!」
「にゃははは! 私の方がよっぽどこむぎよりこむぎって感じだよなー」
こむぎよりも上級生であるにもかかわらず、ふたばはフランクに接してくる。
そんな彼女だからこそ、ふたばはこむぎとも気が合った。
「眠気覚ましならアレ飲めばいいんじゃないんですか? ふたば先輩の好きなエナジードリンク。カフェイン入ってるし」
「アレなー。眠気は覚めるだろうけど、今度はトイレが近くなってさー。水の上じゃ致命的じゃん?」
「あー、そりゃそうですねー。あはははは」
「なー、そりゃそうだよなー。にゃははは」
こんなふうに、いつだって気の置けない会話ができる先輩なのだ。
「こむぎ、ナツは? 一緒じゃないのか?」
と、とあがそんなことを聞いてくる。
「ナッちゃんは掃除当番でちょびっと遅くなるって。あれ、いこの先輩は?」
「いこのは……今日はお家の用事があるって言ってた」
「あー……わたし達の部活動、いこの先輩のお家に支えられてるし、仕方ないよね。でも、大変そうだなぁ」
そんな風にこむぎは感想を漏らした。
この海月女子学園には昔からボートレース部がある。
伝統あるボートレース部といっていいだろう。
でも、その懐事情は決して良いものではない。
モーターボートにはお金がかかる。
それを支えてくれてるのが、とあとふたばの同級生である鈴ヶ森財閥の一人娘、鈴ヶ森いこのだ。
「それなら、もう始めちゃった方がよさげかなー。時間は有限じゃん?」
そう切り出したのはふたばだった。
「そうだな。そうしよう」
「うん!」
ふたばに同意する、とあとこむぎ。
三人で着替えを終えて海へと——練習場のピットへと向かっていく。
「さて、始めるとするか」
ボートの準備を整えたあと。
さっそくふたばがヘルメットを被って軽快な足取りでボートに搭乗した。
「あ、じゃあ最初はわたしが足合わせ希望! とあちゃん、いいよね?」
挙手と宣言をし、こむぎはとあにお伺いを立てる。
足合わせとは試運転。
複数で併走して、モーターの調子を確かめるものだ。
「最初から、そのつもりだっただろ。 こむぎの好きにするといいぞ」
「ありがと、とあちゃん! 愛してる!」
「お前の愛は軽いな……」
とあに呆れ顔をされてしまって、ちょっぴり悲しい。
それはそれとして、こむぎはふたばに続いてボートに搭乗する。
今回、こむぎがふたばに足合わせを申し出たのは、有り体に言えば自分達は同じタイプのレーサーだからである。
すなわち、スタートの正確さと直線での伸び。
にもかかわらず、こむぎはふたばと競うと数えるほどしか彼女の前に出た事がない。
だいたい十回やれば、三回ほどか。
いったい、自分とふたばで何が違うのか。
そういうのもあって、二人っきりで走ってみたくなった。
「さあ勝負ですよ、ふたば先輩!」
「こむぎが相手かー。手加減しないぞぉ?」
「望むところ!」
それでこそ併走する意味があるというものだ。
二人一緒にエンジンをかけ、ピットから離れる。
さあ、ふたばの速さの秘密を盗んでやる。
で、結果は——
「盗めなかったよ……」
ピットに戻ってきてそのまま陸に上がり、こむぎはがっくりとうなだれた。
「盗むってどーした? スイカ盗んだら停学でメロン盗んだら退学だぞ、やめなー」
「誰も校舎裏の畑の話はしてないです……」
声を掛けてきたふたばに対して、こむぎは答える。
いったい、過去に何があったのか。
海月女子学園には本当にそういう校則があるのだ。
「悩み事か? よしよし、おねぇさんに話してみるといいぞぉ」
「ううん……ふたば先輩、一度トップに立ったら最後まで逃げるじゃないですか。何で追いつけないのかなって。こう、秘密でもあるんですか?」
「トップに立った時の逃げかー。よーし、かわいい後輩の為だし、コツを教えちゃおうかな」
「ぜひ、お願いします!」
「うん……前に出た瞬間! ぎゅーん、ずばばばば、どしゅっ! って感じで操艇するんだぞー!」
「……ええと」
効果音じゃわけがわからないけれど、何度聞いても同じだ。
ぎゅーん、ずばばっと、効果音。
「こむぎ、ふたばに聞こうとするのがそもそも間違いだ。こいつは頭じゃなくて脊髄でしか話せないんだからな」
呆れたように横から入って来てきたとあが、ぽんぽん、とこむぎの背中を叩いて慰めた。
一年生の時から同じクラスだったという話だから、さすがにふたばの事をよく理解しているのだろう。
「ひどいな、とあ。私、これでも理屈で説明してるつもりなんだぞ」
ずぞぞぞぞ……。
「擬音オンリーのどこが理屈で……って何思いっきり食べてる!?」
いつの間にか、 ふたばがカップラーメンを豪快に啜っていた。
「にゃははは、ボート乗ってるとお腹が空いてさ」
「ふたば先輩、お湯はいったいどこに……」
「まほーびんに常備してるんだぞぉ」
確かにふたばは大のラーメン好きだが、まさかそこまでするとは思わなかった。
本当に自由な人だとこむぎが思った、その時——。
「あー! またふたば先輩、間食してるのです!」
場を切り裂くようなトーンの声が鳴り響いた。
三人一緒に振り向くと、そこにあったのは小さな女の子の姿。
「あ、ナッちゃん。掃除当番おつかれさま!」
こむぎはまだ制服姿であるその少女に手を振った。
昭和島ナツ。
こむぎのクラスメイトであり、海月女子学園ボートレース部の一員だ。
「お、ナツきち。重役出勤じゃん」
「お、ナツきち。じゃないのです! ふたば先輩は食べすぎなのです! おデブになっちゃうのです!」
腰に両手を当てて、ぷりぷりと怒るナツ。
「始まったな、ナツのお説教」
「始まったね、ナッちゃんのお説教」
こむぎは幼馴染みと視線を交わして、うなずき合う。
「ラーメンのカロリーは全部消化に使われるから、大丈夫なんだぞぉ?」
「どんなトンデモ栄養学なのです!? ボートレーサーは体重管理をきちんとしないとダメなのです!」
これは全面的にナツの物言いが正しく、身体が重すぎても軽すぎてもよい結果には繋がらない。
水面の状態によって適性な体重が違うので、常日頃の管理が重要になってくる。
それはこむぎも、もちろんとあも知っていることだ。
「まーまー、ナツきちは神経質なんだよな。もっと大らかに生きた方がいいって。ほら、いちごプリン」
本当にどこから出したのだろう。
ふたばがコンビニスイーツをナツに差し出した。
「……誘惑には屈しないのです。体重のコントロールは勝敗のコントロールに通ずるのです」
毅然とした態度でお断りするナツ。
「…………」
じー。
めっちゃ視線を、いちごプリンに注いでいた。
いちごはナツの大好物だ。
「……あれは、絶対に負けるね」
「……うん、違いない」
遠巻きに眺めて事態を見守るこむぎ、とあ。
——数分後。
「んんー! いちごプリンはノンカロリーなのです! 法律でそう決まってるのです!」
ナツはいちごプリンを手にしていた。
完全敗北である。
「やれやれ。それじゃ、わたしたちも少し休憩とするか」
「とあちゃんはいつもみたいに抹茶アイス! わたしはみかんバーだね! 倉庫から取ってくるよ!」
もちろん、倉庫にある冷凍庫の中からだ。
基本、スイーツ用である。
それから三分もしないうちに、皆で芝生の上に座っての間食の時間。
おやつタイムが始まったのだった。
小説家
逢空万太 『這いよれ!ニャル子さん』GA文庫、『ヴァルキリーワークス』GA文庫 他
箕崎准 『ハンドレッド』GA文庫、『ポップアップストーリー』スクエア・エニックス 他
イラストレーター
『僕の部屋がダンジョンの休憩所になってしまった件 放課後の異世界冒険部』
WEBコミックガンマ+(竹書房)にて連載中
『待機列ガール』サイコミ(講談社)全6巻
『新しい 彼女がフラグをおられたら』月刊少年シリウス(講談社)全4巻
『彼女がフラグをおられたら』月刊少年シリウス(講談社)全10巻
他